画像で見る聖書の歴史
資料編12
ベッテルハイム訳 ヨハネ福音書
日本聖書協会 前総主事 佐藤邦宏

 このコラムでは、聖書の歴史資料、写本、翻訳等を画像でお目にかけようと思います。それはわくわくするような世界です。さらに聖書を身近に感じていただいて、お読みになりたいという意欲をお持ちいただきたいと願ってお届けいたします。
 なお、わたしは、これらの画像の内、68ほどをオーバーヘッド プロジェクター(OHP)のフィルムにして、多数の方々に、ご説明しながらご覧いただけるようにしています。ご利用いただければ幸いです。なお、この文の最後にご案内を掲載いたしますので、よろしければご利用ください。
12 ベッテルハイム訳 ヨハネ福音書
2000年11月25日掲載の「和訳史のエピソード 11 ベッテルハイムと沖縄」に一部手を入れて再掲載させていただきました。
ベッテルハイム訳 ヨハネ福音書
 1846(弘化3)年5月1日のことです。日本への初めてのプロテスタント教会の宣教師ベッテルハイム博士が、那覇港に上陸しました。彼は、イギリス海軍琉球伝道協会派遣の医療宣教師として沖縄へ渡来しました。この伝道協会は、かつて琉球の人たちに親切にされたことから、イギリス海軍の中で、琉球の人たちにキリスト教を伝え、さらに心豊かな暮らしをしてもらいたいという願いから、1843(天保14)年、イギリス海軍の志のある者たちが募金を始め、組織されたものです。数人の、宣教師志願者がいたそうですが、医師でもあるベッテルハイム博士が、その任に選ばれました。
 ベッテルハイム(Bernard John Bettelheim)博士は、1811年ユダヤ系ハンガリー人として、同国に生まれ、オーストリアに学んだ後、イタリヤのパドウア大学で医学博士号を取得しました。その後軍医となり、転々としましたが、スミルナで、英国国教会のルイス司祭と出会い、聖書を手にすると、これを熱心に読み、やがて、ユダヤ教からキリスト教に改宗し、1840年ルイス司祭から洗礼を受けました。その後、英国へ留学、神学校へ入学しました。当時、ヨーロッパでは敬虔主義運動が盛んで、多くの若者が、世界各地へ伝道のために出かけていた時でした。その影響もあり、ベッテルハイム博士が、アジア伝道を志して、看護婦であった妻と共にロンドンを出発したのは、1845年9月のことでした。彼は2人の子どもとメイドを連れて、1846年初めホンコンに到着、ギュツラフの家に滞在することになりました。ベッテルハイム博士は、長男にギュツラフと命名したように心からギュツラフを尊敬し、その影響を受け、かつ日本語を学び、同年5月1日、イギリス軍艦スターリングで、那覇に到着しました。しかし、琉球王朝は、彼の伝道活動を好まず、那覇の波の上護国寺に閉じこめ、入り口に番小屋を造り、彼らの行動を監視したのです。
 ベッテルハイム博士は、泊の御典医仲地親雲上紀仁家をしばしば訪問しましたが受け入れられませんでしたが、やがて内密に会うことができ、ベッテルハイム博士は、イギリスで発見されたジェンナーの牛痘接種法を教えたそうです。仲地医師は、1848年頃発生した天然痘の予防接種をして成功し、琉球王朝もこれを認め、牛痘接種を、全島に普及させたと伝えられています。
 ベッテルハイム博士は、上陸と共に、熱心に聖書の教えを人々に説き聞かせました。1852(嘉永5)年9月までに、マタイ、マルコ、ルカ各福音書、ローマ人への手紙を訳し終えたようです。しかし、役人の介入がしばしば起こり、彼を手助けする人たちから始末書を取ったりして妨害がなされたと伝えられています。それでも、夫人が清書した「琉球語」の聖書分冊を各戸に配って歩いたそうですが、夕方になると、役人が「今日、お前が配った分」と言ってドサッと置いて行ったというエピソードも残っています。
 琉球政府は、ベッテルハイム博士の扱いに困っていたようで、ペリー艦隊が日本から帰国途中の1854(安政元)年7月1日 那覇へ入港すると、11日 米国・琉球王国盟約調印もそこそこに、17日出港のミシシッピ号に、ベッテルハイム博士も同乗させて半強制的に離日させました。博士の家族は、既に同艦隊のサブライ号にて那覇を離れていました。
 ベッテルハイム博士が訳した琉球語の聖書(分冊)の一部は、1855年、ホンコンで印刷され、さらに1873(明治6)年には、ウィーンのアドルフホルツハウゼン印刷会社で、いずれも英国聖書協会によって印刷されました。ウィーンの分は、日本文字としては、史上最初の鋳造活字が用いられたと伝えられています。その費用は、明治6年、横浜で開催された宣教師総会の席上献金の内、英国海外聖書協会に贈られた分が用いられたとも伝えられています。(画像はヨハネ福音書の一部です)
 しかし、これらの聖書は、琉球語であったため、広く日本で用いられることはありませんでした。その後、博士はアメリカに住み、日本伝道を訴えましたが、1870年2月9日、59才で天に召されました。
(元沖縄大学教授 琉球キリスト教奉仕団理事 石川政秀氏の文を参考にさせていただきました。)

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 わたしは、だきるだけ多くの皆様に、聖書のすばらしい歴史、そして聖書の言葉を正確に伝える努力を知っていただきたいために、OHPとして分かり易いものにいたしました。今まで、180ほどの教会、50ほどの学校にお招きいただきましたが、わたしのひとつの召命として、聖書への関心の高揚心の普及に取り組んでまいりたいと思っています。ご利用いただければ幸いです。
2002.Apr.25
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