画像で見る聖書の歴史
資料編6
死海写本
日本聖書協会 前総主事 佐藤邦宏

 このコラムでは、聖書の歴史資料、写本、翻訳等を画像でお目にかけようと思います。それはわくわくするような世界です。さらに聖書を身近に感じていただいて、お読みになりたいという意欲をお持ちいただきたいと願ってお届けいたします。
 なお、わたしは、これらの画像の内、68ほどをオーバーヘッド プロジェクター(OHP)のフィルムにして、多数の方々に、ご説明しながらご覧いただけるようにしています。ご利用いただければ幸いです。なお、この文の最後にご案内を掲載いたしますので、よろしければご利用ください。

6 死海写本 
死海写本  1947年の始め、死海のほとりで、崖の途中にある洞窟から、偶然のことから古い写本群が発見されました。いなくなった羊を探していたベドウィンの少年が、断崖の途中ににある洞窟に、羊に当たれば鳴き声を出すだろうと石を投げ込んだところ、焼き物が壊れる音がしたということから、歴史的な写本の発見となったと伝えられています。多少誇張されていることもあって、正確には分かりませんか、世紀の発見であったことは間違いありません。
 盗掘、そして専門家による調査が行われて、紀元前2世紀から、紀元後1世紀にかけて書かれたアラム語やヘブライ語の羊皮紙の巻物や、その断片が数多く発見されたと伝えられています。それらは、旧約聖書、そして注解書、教団の規律、儀式について、賛歌などが含まれているそうです。その中には、旧約聖書のほぼ完全なイザヤ書などが含まれていたそうです。
 これらは、「死海写本」と呼ばれていますが、これらをまとめ、書いたのは「クムラン教団」の人々だと言われています。紀元前2世紀半ば。彼らは修道院を建てて共同生活を始めたようです。そして特に聖書をまとめ、これを書き写すことを中心に共同生活をしていたようです。その修道院が、紀元70年頃ローマ軍に襲われ、修道院は破壊されてしまいました。ローマ軍の襲撃を知った「クムラン教団」の人たちは、急いで巻物を壺に収め、洞窟に隠し終えた後、ローマ軍に滅ぼされてしまったようです。それで、誰にも知られることなま隠されていた巻物の壺の群が、偶然なことから2千数百年の時を経た後、ベドウィンの少年によって発見されることになりました。
 「死海写本」については、諸説がありますが、ここでは聖書の本文そのものに注意しましょう。旧約聖書が、現在わたしたちが手にする聖書として編集され、聖典として決定されたのは、1世紀初頭のヤブネに於いてのことでした。このヤブネ会議で、旧約聖書の範囲が決定され、また、書き写す方法とルールが決定されたのは、前に述べた通りです。
 クムランの洞窟から発見された旧約聖書の中に、例えば「イザヤ書」のほぼ完全なものが含まれていました。これを、たとえば、前回ご覧いただいた「レニングラード写本(1008年に書かれたもの)」と比較してみるとほとんど一致するのだそうです。この両者が書かれた時期は、およそ1300年近い隔たりががあることにもご注意ください。その間には、何度も書き写されたはずです。そこには、写本を正確に行うために、驚くべきルールが定められ、それが守られていました。次回は、その秘密の一つを覗いてみましょう。
 なお、現在の「聖書 新共同訳」、旧約聖書の翻訳の底本であるBHS(ビブリア ヘブライカ シュトットガルテンシア 初版1967、第2版77年)編纂の基礎に、「死海写本」と「レニングラード写本」の研究の成果が盛り込まれているのです。  
 次回は、飛び上がったアイン 写本を正確に行うための仕掛けをお伝えいたします。
 11月25日に更新の予定です。

ご案内
 OHP化した資料のリスト差し上げます。メールで、添付資料としてお届けいたします。テキストは、マイクロソフトのワードです。これは無償でご提供いたしますので、お申し付けください。
 わたしは、だきるだけ多くの皆様に、聖書のすばらしい歴史、そして聖書の言葉を正確に伝える努力を知っていただきたいために、OHPとして分かり易いものにいたしました。今まで、180ほどの教会、50ほどの学校にお招きいただきましたが、わたしのひとつの召命として、聖書への関心の高揚心の普及に取り組んでまいりたいと思っています。ご利用いただければ幸いです。
2001.Oct.25
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