聖書通信講座シリーズ
[キリスト教入門講座9]第5課 第10章 永遠の生命
日本聖書協会 前総主事 佐藤邦宏

「聖書新共同訳(日本聖書協会)を用います」

 1978年、私が東京市ヶ谷教会の牧師であったとき、この「入門講座」を発刊し、10数万のご案内のチラシを配布し5百人ほどの方からお申し込みをいただきました。それらの皆さんの中から、礼拝に出席する方、洗礼をお受けになる方も少なくなく、教会が非常に元気になりました。そしてそれ以上に、聖書をよく学ぶことができたとのお言葉をいただきました。ここに再びその講座をご紹介して、さらにお役に立つ道を見出せれば幸いに存じます。再発刊も視野にいれながら、その講座の内容をご紹介させていただきます。少々長いものですが、お目通しをいただければ幸いに存じます。

第5課 第10章 永遠の生命

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 「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。(ローマの信徒への手紙6章23節)
 この講座の第6章で、この世の生活の重荷を負い、この世のしがらみを背負ったままでは、私たちは、死ぬに死ねないのではないかと述べましたが、あなたはいかがでしょうか。
 また、私たちが育ってきたこの日本という国が、四季おりおりの情感や産物に非常に恵まれており、同時に長い間仏教によって培われてきた思想の土台に立っているので、私たちは、人生を「無常観」をもって見る傾向があるように思います。「人生とは、はかないものだ」と思うことができるのも、私たち日本人の特殊性の一つです。
 それはたしかに、ある味わいと、深い思想性のようなものを持っています。それはそれで日本人のたいへんすばらしい特質でありましょう。
 けれども国際社会で生きなければならないこれからの日本人は、それだけではすまないのではないでしょうか。このすばらしい日本人の特質のマイナスの面にも目を向けることができれば、もっともっとすばらしく、かつ豊なものになるでしょう。
 今は「生きがい」を求めることが難しい時代だという人があります。私は、これには二つの面があると思います。
 第1には、さきに述べた日本人のすばらしい特質に関係があります。このすばらしさも、裏目に出ると、自然と調和して生き、事柄を受け入れていくという面が出て、困難に打ち勝っていくとか、出来事をあらゆる角度から冷静に観察し、何とか解決しようと努力したり、勇気や希望を持つという面を生み出さなくなってしまうのではないでしょうか。少し障害や困難があると、そこで止まってしまい、「もう生きがいがない」と思い込んでしまうのです。
 第2に、私たちを創造してくださった神という面から自分自身を考えることができないと、どうしても物の考え方が、自分中心、人間中心とせまく小さくなってしまいます。そこで「生きがい」といっても、非常に人間中心的な、物質的な面でしか考えられなくなってしまいます。
 「あなたの生きがいは何ですか」と聞くと、「大学に入ること」、「就職すること」、「子供の成長」、「家を建てること」「若々しくあること」などという答えがかえってきます。よく考えてみると、皆、非常に自己中心的です。それが悪いというのではありません。
 たとえば、「仕事か生きがいだ」としましょう。現在のように管理された社会では、よほどの幸運と能力に恵まれないかぎり、その「生きがい」欲を満たしてくれるほどの成功は期待できないでしょう。そうなると、それこそ「生きがい」のない、暗い人生しか残らないことになります。
 「家を建てるのが生きがい」と思う人は、家を建てたあと、空虚さだけが残る場合が少なくないのです。「生きがい」をこのように人間中心、自己中心的に考える限り、すぐ行き詰まってしまい、「生きがい」がないと思うようになるのも当然ということになります。

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 このことを念頭において、この章の冒頭に引用した聖書の言葉の中から、「永遠のいのち」について説明しましょう。
 キリスト教会の問題の一つは、言葉が難しいということです。しかし、それは日本にキリスト教が本格的に広く伝わるようになってから、まだ百数十年ほどの歴史しかないので、言葉がよくなじんでいないのも原因の一つです。「永遠のいのち」も、分かりにくい言葉の一つです。それを別の言葉で言い表わすのは難しいのですが、意味はこうです。第6章の「義」という言葉を思い出してください。神が最初「このようにあらせたい」と、はっきりした「創造の意志」をもって人間を創られた、その最初の姿が「義」だと述べました。その「義」が持つ「いのち」、あるいは「義」の状態を「永遠のいのち」というのです。
 だから「永遠のいのち」というのは、単に「死なないもの」というのではありません。それは、生も死も乗り越えている、神による最初の創造の姿そのものなのです。神の「創造の意志」が完全に実現されている状態を言うのです。
 さらにそれは、「創造の意志」によって審く「最後の審判」により、当然めでたく完全なものとして神に受け入れられる姿なのです。
 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音書17章3節)

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 クリスチャンは、けして完全な人間というわけではありません。何も悪いことをしない、立派な人間というわけでもありません。クリスチャンといえども、弱い人間であることに変わりはありませんから、一人の人間としての弱さを、誰でもが持つように持っているものです。
 では何が違うかと言えば、まず第1に、神の「創造の意志」をいつも聖書や教会によって知っているということです。「創造の意志」を、自分の行動の基準にしたいと願っているので、今日の過ちは、今日の内に大胆に悔い改めるという点であろうと思います。「最後の審判」という言葉で表されるように、いつ神の前に真実を問われても、「少なくともあなたの「創造の意志」を私の行動や思考の基準として、努力して生きてきました」と応えられるような生き方をしたいと願っているのです。
 第2に、「永遠のいのち」という言葉で表されているゴールを目標として生きています。はっきりした目標に向かって、一生懸命に走っている途中にあるのです。ゴールが見えます。そのゴールは、イエス・キリストの「あがない」によって私たちに与えられると約束されています。ゴールインした喜びは、実際に汗を流して走った人でなければ、けして分からないのです。
 第3に、クリスチャンは、「永遠のいのち」が、イエス・キリストによって与えられるという神の約束を信じています。この約束のことを旧約に対して新約といい、その内容と、どのようにして最初の創造の姿、すなわち「永遠のいのち」がイエス・キリストによってどのように回復されたかが、「新約聖書」に書かれています。
 第4に、神のことをクリスチャンは「主」と呼びます。「主」の反対の言葉は「どれい」ですが、「どれい」は主人の意志どおりに動かなければなりません。だれでも、どのような行動にも動機があります。第2章では、このことを「行動の原理」と言いました。
 神を「主」と呼ぶことは、自分を「神の奴隷」と認めることで、奴隷が主人の言いつけどおりに動くように、「神の意志に従って生きます。神の意志が私の行動の原理です」と表明することです。この世のあらゆることは、私を高め、私の生活をより便利にし、より豊にしてくれる道具や手段に過ぎないのです。
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない」。(マタイ福音書6章24節)
 第5に、クリスチャンは死の彼方にもキリストが、私たちの「主」として共にいてくださるという約束を信じています。死後、迷うことなく、キリストと共に「永遠の生命」を生き続けることができると信じています。死も、キリストと共にいる日々への一つの通り道です。(ヨハネ福音書14章1〜6、テサロニケ第1の手紙4章13〜18節参照)

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 「永遠のいのち」を知り、これを得た人は、この世を生きていくうえで、どのような成果があるでしょう。
 まず、この世で何が一番大切かが分かります。この世でお金が一番大切だと思っている人は、お金を得るためには、友人さえ裏切ってしまうことがあるでしょう。もし失敗して、お金を失うようなことにでもなれば、それこそ絶望してしまうでしょう。
 「永遠のいのち」を持っている人は、お金が大切であることは同じようによく知っていますが、お金の主人は自分であって、お金は自分が使いこなすものだということも知っています。ですから、ゆとりをもってビジネスにあたることができ、たとえ失敗しても恐れないのです。このように、ゆとりを持って仕事をすると、思いがけなく仕事もうまくいくものです。
 人間関係、仕事、家庭、子供の教育など、いろいろな分野で同じことが言えます。「永遠のいのち」を持つものには、神だけが「主」であって、他のいっさいのものには自分が主人公なので、あらゆることに、自発的に、自由な意志をもってあたることができるのです。あらゆる事に、喜びと責任をもってかかわれるのも、神を「主」と仰ぐことによって全てのものから解放されるからです。

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 さて、こう考えてくると、あなたが「生きがい」と考えていたことは、実は「生活の節目」に過ぎないことがお分かりいただけるのではないでしょうか。そしてそれは、それがなければ生活のすべてがだめになってしまうようなものではないので、一つのことがうまく行かなければ回り道をすればいいのです。そのような気持ちのゆとりが、生活上でのしぶとさ、勇気、そして希望を生み出すのです。
 しかし、どうしても失ってはならないのは、私たちがこうして生きているという事実、そしてそれを支えている意味と目標です。ここに立てば、私たちは、日常の生活をほんとうに気持ちのゆとりをもって、おおらかに生きることができます。自分のことばかり考えるのでなく、人とも協力し、仲良く、幸せに生きることができます。

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 これらのことを解く鍵として、神の「創造の意志」という言葉をこの講座では用いてきました。少しはお役に立ったでしょうか。
 最初、「神」について定義はしないと申しました。最後まで定義はしないことにしましょう。「神」という言葉がいやであれば、それは何でもよいでしょう。しかし、この講座では、一貫して「創造者」というように、人格的な存在という言い表し方を用いてきました。いかがでしたでしょうか。私はどうしても、人間の言葉の貧しさを思わずにはいられません。
 まだ、書き足りないことがたくさんあります。触れていないこともあります。あとは、あなたご自身に学んでいただかなくてはなりません。また次の講座で共々に学びましょう。
 大切なことは、一度限りのこの人生を、いかに真実の意味で豊に生きるかということではないかと思うのです。その道が「聖書」によって示されているのです。これからも、さらに深く聖書を読んでください。そして、神の「創造の意志」が、あなたの力になりますように心から願っています。

 第10章にでてきた教会の用語
   「永遠のいのち」「主」

講座を終えるにあたって
 これで、この「キリスト教入門講座」を終わることになります。しかし、実はこれは「終わり」ではなく「始まり」だということを知っていただかなくてはなりません。
 最初にお約束しましたように、この講座は、通りで道をたずねられた時、あちらの方ですと教えてあげるようなものです。そのあとは、あなたご自身の足で、示されたほうへ歩いていただかなければ、目的地へは到着できないのです。
 目的地へ行くにはどうしたらよいでしょう。
 第1に、あなたご自身が聖書を読み、神の「創造の意志」をもっとはっきりと聞き、あなたの日々に生かしていただかなければなりません。
 第2に、神との交わりは、非常に人格的で具体的なことですから、「キリストのからだ」と呼ばれる教会の中で、多くの人の励ましを受けながら、神の「創造の意志」を聞くことが大切です。
 第9章「礼典の章」で述べたように、「神の奉仕」である礼拝や、洗礼、聖餐によって神の力はあなたにますます豊に注がれ、あなたを真の人間としての幸せな道へ導いてくれます。
 第3に祈ることです。これは第8章をもう一度思い起こしていただきたいのです。わたしたちに生きる意味と目的を与えてくださった神は、祈りを通して今も力を与えてくださいます。
 ぜひ、この講座を指導した教会、牧師や教師を訪ねてみてください。きっとあなたは歓迎されるでしょう。そしてあなたの新しい世界が広がるでしょう。
 また、ぜひこの講座を、あなたのお知り合いの方にもお勧めください。共に学ぶことによって、あなたも新しい仲間を得ることができるでしょう。

 長い間、講座をご覧いただき感謝いたします。あなたの新しい日々が心豊なものでありますように心から願っています。神様の豊な祝福が貴方とご家族の皆さんにありますように。

日本福音ルーテル教会引退牧師 前日本聖書協会 総主事 佐藤邦宏

2004 Jul. 25
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