「私のヘブライ人への手紙」(みんなで燃えた教会の物語)
Vol 11

-教会と若者 2-

 

 「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし、確信と希望に満ちた  誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」

(3章6節)

 学生たちとのつきあいは実に楽しいものである。私たちも真剣だったけど、学生たちも新しい寮の伝統を作るというので、それは熱心であり、楽しげであった。

 先にご紹介した、「寮の憲法」の第1、「聖日礼拝を厳守し、教会の行事に積極的に参加すること」という一項についても、彼らは忠実に従った。鹿児島教会の場合、聖日礼拝に出席するだけではない。身体障害の人たちの送迎や世話がある。後には、自動車で送迎するようになったけれど、ずいぶん長い間、若い人たちが車を押して、教会への送迎をしていた。夏の暑い日などは、けして楽なことではなかったけれど、皆よくがんばったのである。それは。むしろ身体の不自由な人たちのために何かをしてあげているように思っていても、実は、教えられることの方が多かったからである。毎日、午後8時からの聖書と祈りの時間も、皆よく守ってくれた。

 今だから明かすけど、身体障害者の作業場の2階に学生寮を作ったのには、二つのねらいがあった。第1には、若い人がいてくれれば、いざというときに助かるだろうという計算があった。火災、地震などいつ起こるか分からない。その時学生がいるとは限らないけれど、ここに彼らの生活の本拠があれば、何か役に立つに違いないと思ったのである。

 第2に、これが重要なことだが、学生時代に、このような人々に身近に接するというのは、きわめて重要なことだと考えたのである。学生時代というものは、とかく思い上がりやすいし、それは若者の特権ではあるが、自己中心的になりやすい。これは、どのような言葉を重ねても、それをうち破って、謙虚で広い心を持たせることは難しい。大切なことは議論ではなく体験である。そして体験から来る感動である。この場を学生たちにも与えたいと思ったのである。

 学生たちは、自発的に、毎日、祈りの時間の他に、毎週水曜日夜10時から、ミーティングを開くようになった。交代で聖書の話をし、そして祈る。そして自分の大学での研究について話をする。これは、積極的に話をするようにさせた。大学では、機構はいわゆる縦割りである。専門分野が異なる人の話など聞く機会はないのである。

 大学生なら、友人というものは、人間的な関心やつながり以上にアカデミックな関心によってつながるがよい。学問的に尊敬し合えるというようなことが、実は大切なことではなかろうか。専門以外は何も知らないというのは困るのである。ミーティングは、小さな歩みではあったが、確かに、それを目指した歩みであった。後に、私が箱崎教会の牧師になってから、それは「ルーテルセミナー」という名称で九州大学の学生を中心にする集会に受け継がれた。

 学生たちは、よく語り合った。語り合うには、飲食がつきものだけど、時には2階の床に、車座になって座り、夜8時から夜明けまで、鍋をつつきながら、よく話し合ったものである。学生たちは、何とか私を酔いつぶそうとしたらしいが、学生たちよりけして先に寝まいと心に決めていた私は、ついに彼らには負けなかったのである。

 寮には、小さな台所がついていた。しかし、男所帯のことで、二日もすれば、汚れ物の山である。日曜になると、礼拝にやってきた若い女性たちとおばさんたちがきれいに片付けて帰る。その割には、寮にいた学生と後に結婚した女子青年が少ないのはなぜだろう。

 共同研究もよくやった。その頃は、キリスト教会はもっと社会のことに目を開かねばならないと言われていた時代であって、そのことに先走ろうという学生もいたけれど、私たちは、共同研究によって物事の真実をとらえるという道を選んだのである。

 「ローマ人への手紙13章における権威の問題」「コックスの世俗都市」等が今も憶えているテーマである。九州教区の青年会の集まりが開かれたりすると、その前一ヶ月くらい勉強をして、全員が車でパッと乗り付け、まくしたてたりするものだから、なかなかハイブロウな調子であり、いささか、他の教会の青年たちを煙に巻いたりして得意がっていた面もあったし、また迷惑をかけたことも少なくなかったに違いない。

 先に述べたように、将来゛どこに出てもびくともしない人間を作ろうというのがねらいだったから、世の中の底辺部分の経験と同時に、仮に贅沢な社会に出会ってもおどおどしないだけの度量が欲しいし、育てなければならないと考えた。東京に住んでいれば何でもないことでも、地方では大変なことが少なくない。わたしが。寮の憲法の中に、「寮の計画に参加する」としたが、それは「東京へ行って、一流ホテルに泊まろう」というものがあった。笑われるかもしれないが、当時は、地方で育った学生にも、ぜひ、世界の檜舞台で活躍してもらいたいとの切なるわたしの願いがあった。当時、一流ホテルに泊まるというのは、あるいは今でもそうかもしれないが、わたしに言わせれば、大切な紳士教育(所謂社会人としての大人教育であって、別に女性をはずしているのではない)の基本の一つだと考えていたからである。戦前の旧制高校(ナンバースクール)が持った教育の姿勢、わたしはその教育を受けたことはないが、その理念に学びたかったせいもある。

 寮開設の最初の年、クリスマスイブの礼拝後のパーティを、当時開業したばかりの本格的ホテルである城山観光ホテルで開くことにしたのである。それも女性同伴が条件であり、会費を高額ではなかったが、いくらか貰った。前述の紳士教育に、「ただ酒は飲むな」のルールに従ってのことである。

 それで大騒ぎである。教会の一人の女性に数人でアタックしてみたり、中には大学の掲示板に「一晩500円」で、同伴してくれる女子学生を求めるアルバイト広告を出したりしたのもいた。実は、この女性は、それを機会に礼拝に出席するようになり、洗礼まで導かれたのである。

 とにかく、全員が無事に揃い、精一杯ドレスアップしてかしこまっている様は、今でも目に浮かぶ。女性にたいする配慮、エチケット、それにお酒の注文の仕方まで、これは冗談に紛らわしながらではあったが、など、予め教えていたので、それに従って各自がオーダーし、ステージに拍手して、無事に時を過ごしたのである。予め、帰りは必ず女性を家まで送り届けるように指示しておいたのだが、私たちが支払いを済ませて外に出たときには、もう誰も残っていなかった。

 学生紛争が少しずつ始まっていた時代であった。学生の中に、民青の活動家もいたし、次の年には、中核派の学生も入寮してきた。「公安警察はこの寮にも目をつけていますよ」など言う人もいたが、寮の中では、皆結構仲良くやっていた。

 私が奉仕した教会は、鹿児島、福岡、東京いずれも青年たちが牧師館に押し掛けてきた。それも、食事時に来る者が多い。「ごはん食べた?」。返事の多くは「いえまだです」であり、「では、どうぞ」が私たちの返事であった。私たちの子どもたちは、小さい時から形のあるものを一つ食べるというわけにはいかなかった。いつでも、食事の途中ででも分け合って食べられるものでなければ、いつ誰がやってくるかわからない。だから、魚一匹というようなおかずを普段でも食べるわけにはいかなかったのである。成長したいまでも、子どもたちは客を迎えることが上手だから、牧師館生活での習慣がいつのまにか身についたのであろう。

 私は、教会はもちろんキリストの体であり、キリストが育ててくださるのだけれども、見えるかたちで、学生と共に育つことのできる教会、若い人が育つ教会は、非常に大切なことではないかと考えている。若い人たちの成長に、具体的に奉仕できる教会は、大切な存在ではないかと考えている。

 さて、身障者の作業施設も、学生寮も、やがてその活動を停止することになった。それは、前に述べたように、障害者作業施設は、教会が、善意だけでいくら続けても、力は知れている。そこで、社会が、このようにやればやれると。気づいてくれるまでが、教会の仕事だと考えたのである。つまり、教会は、この世に、啓蒙的な働きをして、後は、社会に住む皆で取り組もうという風潮を作り出すことが、まず目標である。県立の、障害者作業施設が完成したのを、見届けて、教会の役割は終わったとの判断であった。後は、障害者も、健常者も区別なく、教会で、信仰者として、神と出会い、神に育てられる日々を、皆同じように過ごすのが、教会の最も大切な働きであると信ずるからである。また、学生寮も、1970年代に入ると、学生たちの気持ちも、かなり変わってきて、教育寮としての務めは終わったという判断から、寮の閉鎖ということになったのである。もちろん、多くの学生たちが、それ以後も教会で育てられる教会のあり方に変わりはない。若い人たちの活動は、それからも続いたのである。


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