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「私のヘブライ人への手紙」(みんなで燃えた教会の物語) -教会の役目 1- |
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ここで言う「天使」というものは、何も背中に羽の生えたものなど想像する必要はない。あんなものはキャラメルの広告あたりにまかせておけばいいのであって、これはむしろ私たち自身のことを言っているのである。 先に申したように、私たちは説教台を背負って生きているようなものである。つまり、神の意志が、私たちの生きざまそのものを通して人に伝わって行くのであれば、私たち自身が「天使」と呼ばれるのは、当たり前となるのである。この当たり前が大変だというのは、今さら言うまでもない。 しかし、随分いい加減なこの私でも、ことさらに「天使」と呼ばれてみると、気恥ずかしさと共に、何とかがんばらなくっちゃという気になるから面白い。それも一人では何だからと、ぞろぞろ集まったのが「教会」と呼ばれるようになっている。 「天使」と言っても、最初から「天使」らしい「天使」などはいないのだし、とんでもない者を「お前は天使になれ」といって、突然「天使」にならされたようなものだから、その集団である教会といったって、まず、理想郷と言うわけにはいかないところがある。
さて、「突然天使」だが、初めから天使など呼ばれる人はいないのだから、一人一人を取り上げてみると、何がどうなっているのか、さっぱり分からない面がある。しかし、そこは、神から「お前は天使だ」と言われたのだから、一つの目的に結集すると、気が付かない内に、素晴らしい働きをするものである。 そうである。ただの集団ではなく、それが一つの目的、それも自分が充分納得して、その心を寄せることができる目的を持つことができれば、思いがけない力を発揮するものである。一人一人の構成員を見て「大したことはない」と、もはや思えないのである。 もちろん、一つの目標のもとに集まる強さについて、他にも多くの例があろうけれども、教会という集団について言えば、人間の側で、何も資格付けができない、また、する必要もないという点が重要である。今の時代に、特にはっきり伝えておきたいのは、変なことかも知れないけれど、キリスト教会には、脱会の自由があるということである。ある日、パッタリ来なくなってしまう人も結構いるものである。その人たちは、別に追跡されたり、重荷を負わせられるようなことは一切ないのが、キリスト教会の特徴ででもある。もっとも、神様の側から言えば、けしてあなたをお忘れになることはないのですがね。ついでに、経済的なことだが、キリスト教会は、自由、かつ自発的な献金がその収入源である。だから、強制されるようなことはないし、全く自由意志で参加すればよいのである。献金の目的に賛同できれば、もちろん積極的に捧げていただきたいものではある。 しかも、「天使たちは皆、奉仕する霊」だという。自己の中に目的を持たないのである。仕えるというのは、いつも、仕える相手が本当の幸せになることのみを求め、それを喜ぶものでなければならない。 「そのようなことはできない。そうできると思い、そう求めるのは偽善だ」という人も大勢知っているけど、そのような道が、事実存在することも確かである。
私は、鹿児島教会の牧師として鹿児島に着任した時、この教会を、目標を常に高く掲げた教会にしようと決意した。この決意は、その後赴任した教会でも、変わらなかった。問題はその目標である。まず「救いを受け継ぐことになっている人々に仕える」ものでなければならない。そして、少なくとも、皆の気持ちがそちらの方へ向くようなものでなければならない。気持ちさえ向けば、参加するかどうかは、その次に決まってくるのである。 鹿児島では、まず拠点としての会堂建築がその目標の第一であった。礼拝堂は、一週間に一度しか使わないからもったいない、それより、普段は保育園などに使われるようにして、近隣に喜ばれるようにした方がよいと考える人もある。しかし、私はそれには反対である。もちろん、教会形成の初期ならそれもよいかもしれないが、やはり、礼拝には、普段の生活や活動の場と異なったきちんとして場所が欲しい。そこで本当の力を得て、それぞれの活動の場所へ出ていけばいいのである。いずれ述べるが、礼拝への気持ちの切り替えが、きわめて大切であるという経験をいやというほどすることになるのである。 礼拝堂のもう一つの大切な要素は、人生の節目に、深い関わりがあるということである。たとえば、結婚式、やはり伝統に則った、荘厳で、神の言葉を聞きながら、しかも、兄弟姉妹と呼ぶ人々にも祝福されながら、新しい二人の人生をスタートさせるというのには意味がある。それが、自ら日頃愛し、親しんでいる礼拝堂においてならなおさらである。 もう一つの人生の大きな節目、それは人生を終える時、つまり自らの葬式を、日頃愛している礼拝堂で、家族や、友人たち、そして兄弟姉妹と呼び合っていた教会の人々に送られて、人生を終える時である。鹿児島教会では、仮会堂時代から比較的葬式が多かった。それも、幼子たちの葬式が時折あった。それで、皆死の厳しさと、その彼方で神が共にいてくださるとの約束を信じることができなければ、誰の死にも耐えられないことを、身にしみて感じていたのである。いつしか、それは信仰となって、互いを兄弟姉妹と呼び合う思いがますますしっかりしたものになり、それが信仰共同体へと成長していったのである。
鹿児島にも会堂が欲しいと思った。しかし、神学校時代に会堂建築について何も教わらなかったし、日本に伝統があるわけではないし、全くの手探りで建てた鹿児島教会の会堂は、後任の牧師たちに随分迷惑をかけているようだ。 教会堂は、見た目ということも、大変重要である。殊に、ヨーロッパなどでは、礼拝堂建築は、芸術の領域である。それは、ここに何かがあるということを告げる、いわばメッセージを教会堂自身が持っているからである。私は、それを説教台と呼んだが、説教は、まさに神の言葉のメッセージなのである。たとえ日本の片隅の小さな教会堂でも、ここに何かがあるというメッセージ性というものは、大切なことではないかと思う。残念ながら、今から述べる予算では、メッセージを、芸術の域まで高めることはとてもできないであろう。 さて、当時、1958年、210万円補助を日本福音ルーテル教会からいただけるという決定をいただいた。当時のやり方としては、その教会が、一割以上の資金を作れということで、鹿児島教会は、21万円資金を作る必要があった。何しろ、教会に集う信徒が25名の時代である。それでも大金だったのだが、私は、一回り大きな計画、座席定員百名を主張して、80万円を集めようと提案した。 その頃私が教会からいただく謝金が9千円ほどの時代である。今ならかなりの金額になる。これを25人でやろうというのだから、随分むちゃな話しである。それでも、比較的若い役員たちは、とにかくやりましょうということになったが、事実2年後の1960年8月には会堂ができあがってしまったのである。 最近知ったことであるが、これを設計された野村さんも、建築した業者も、実は鉄筋コンクリートの建物は、これが初めてであったと聞いて、皆一生懸命であったはずである。野村さんは、その頃、奥さんと子供さんたちが、洗礼を受けられた。それにしても、設計の謝礼が、恥ずかしいほど少なかったと、今も申し訳なく思い出す。 当時は、まだ窓に鉄や、アルミのサッシュを使うという考えは一般的でなかったけれど、設計としては、ずいぶん斬新なもので、正面の幅4メートル、高さ6メートルの湾曲した赤煉瓦色の壁は、南国の太陽によく似合った。私は、建築の専門家であられる野村さんに、私の会堂についての気持ちをうまく伝えられなかった。しかし、野村さんが、計らずしも正確に表現してくださったメッセージ性に、むしろ感動したのである。それは、それから長い間、礼拝堂が、その地域に語りかけ続けていることからも、確かなことである。
礼拝堂の正面向かって左に、四角な塔を建ててもらった。デザインとしても、バランスはとれていたが、大切なのは、その塔の機能である。中は、はしごで登れるようになっていた。さて、牧師が信徒の家庭訪問をするのは、とても大切なことである。目的はいくつかあるが、牧師が、信徒一人一人の生活の場、状況を知っておくのは大切なことである。いざというとき、牧師は真っ先に駆けつけ、対応しなければならない。礼拝堂の塔は、実は。物見櫓の機能を持っていたのである。鹿児島市では、火災が発生すると、全市にサイレンを鳴らす。すると、わたしは、それが深夜であろうと、はしごを登って物見櫓である礼拝堂の塔に登る。鹿児島市を見渡して、それが信徒の住まいの地域であるかどうか、確認するのである。もし、そうであったら飛んでいく。幸い、わたしの在任中に、信徒が火災に巻き込まれることはなかった。 奉仕というものは、相手のために何かためになることをすればよいというものでもない。「救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるため」といっても、保育園を開いた、老人ホームを建てたということで、その目的が達せられたかというとそうではない。それらは、活動であって、奉仕の極めて重要な一つの要素であるに過ぎないのである。 奉仕というものは、共に、人間として生きるということであって、相手を本当の意味で人間として尊重し、その人間性をいささかでも阻むものを許さないという精神である。これらの心は育てられなければならない。会堂は、私たち地上での生育の拠り所となったのである。人々は、新たな目標を、自ら求め、探すことになった。 次回は、月末25日頃の更新を予定しています。ぜひ、ご意見、ご質問をお寄せください。お知り合いの方に、このホームページをお薦めください。ご一緒に、お話し合いの上、ご意見等もどうぞお寄せくだされば、幸いです。 まだ、キリスト教会へおいでなったことの無い方はぜひ、お近くのキリスト教会へ行って見ましょう。初めてであっても心配はご無用。歓迎されますよ。教会の表の掲示板で、礼拝やミサの時間を確かめましょう。日曜は、主の日、多くの教会では、この日に礼拝、ミサが行われます。 ただ教会は、その歴史と伝統によって、式次第や雰囲気が違う場合があります。自分の肌に合わないと思ったら、さらに別の教会にも、行ってみましょう。 教会は、あなたに献金や、参加を強要したりすることはありません。献金は自由意志です。目的に賛同できれば、ぜひ、ご協力ください。また、最初から言うのも変ですが、退会は自由、行くのを止めれば、それでよいのです。 しかし、せっかくのあなたのご決心ですから、しばらく続けて出席してみましょう。お困りのことがあれば、どうぞ、メールでお知らせください。ぜひ、教会へお出でください。 この項は、毎月25日頃、更新の予定です。続けてお読みいただければ、幸いです。 ご感想はこちらへ Kuni2sato@aol.com
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