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「私のヘブライ人への手紙」(みんなで燃えた教会の物語) -教会の役目 2- |
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さて、皆の祈りは聞かれ、会堂は建った。今まで雑草がぼうぼうだった所に会堂がでんと建ってみると、あたりの環境も何となく変わっていくようで、今まで雑草のことをやかましく言ってきた近所の老人が、おかげで、ここいらの土地の値打ちも上がりましたといって挨拶にみえたのには驚き、嬉しくなってしまった。後に、教会の裏手に隣接して土地を買ったひとは、わざわざ教会の側だから環境がいいと思って買われたと聞いて、さらにびっくりしたのである。教会は、騒音公害の元であるなど、最近聞かされることがあるが、やはり鹿児島という土地柄のせいであろうか。 会堂は、一種のメディアである。それは、説教台という言葉で表したように、そこで何が行われているか、地域社会に見えるように、デザイン、雰囲気等、工夫がなければならない。もちろん、教会堂で行われることは、説教台という言葉で表現したように、神の意志の伝達である。時には、尊く、また厳しく、そして優しく、み言葉を聞き祈る場所であり、人がみ許で憩う場所として、会堂がメッセージをもつことが、大切であると思う。会堂建築と共に集まってくる人も増えてきたのである。人が集まると共に、教会の新しい機能が感じられるようになってきたのである。 会堂の戸締まりをしないで欲しいとわざわざ近所の方に頼まれたことがある。ある中年の女性は、大学生の我が子を、突然亡くされた。急性尿毒症が原因で本屋で卒倒し、即死状態だったそうである。毎日のように、礼拝堂に来ては、大声でしばらく泣かれる。慰めと、励ましの言葉をかけ、共に祈りをしていたのだが、半時ほど、心の底から泣かせてくださいとの申し出で、放って置くことにした。数ヶ月の後、やっと立ち直れたとの挨拶で、祈りを共にして礼拝堂から送りだした。
そう言えば、ヨーロッパ等の伝統的な教会堂には、副祭壇が備えられている。それらは小さな礼拝の場所、静かで、彫刻、絵画に囲まれ、それらはもちろん芸術の域にまで、高められている。そしてそこは、心の奥底に語りかけるような、そして安らぎと、平和の場所なのである。それは、きっとあのご女性のような方のためのものであろう。人知れず泣く場所、あるいは、静かに、己の真の姿を見つめる場所、そして静かに神と語り合う場所、きっと教会は、その伝統の中でそのような場所を、人々のために作り出して来たのであろう。その点、まだ、日本の教会は、建築物としても、これからだなと思わされたのである。もちろん、鹿児島教会も、そのような場所を造っておけばよかったとあとで残念に思う始末であった。 会堂は礼拝の場所であり、礼拝は「神の言葉」を聞き生かされる時である。それで礼拝のシンボルとして大型の「講壇用聖書」を、当時大枚1万円で購入し、聖壇の中央に常時おいておくことにした。ところが、この聖書が、1週間後、盗まれてしまった。あの重い聖書を誰が盗んだのか、そしてそれをどうしたのか、何となく未だに楽しく思い出すから不思議である。盗むほど「神の言葉」に生きた人の仕業であるに違いない。
教会員にMさんがいる。彼は、宣教師の家へ、夜、聖書を買いに来られた。たまたま、そこで集会を開いていたのである。Mさんは、鹿児島市の中心街にある、幾代も続いたある老舗のご主人で、当時まだ三〇代であったと思う。私はその話を聞いて、夜ひそかにイエスのもとにやってきたニコデモのような人だなと思ったのだが、翌日お店に聖書を届けに行くと、宣教師の家は、たまたま奥さんの実家の近くであったし、昼間は忙しいので、聖書を探しにいくひまがないという挨拶であった。 それでも、Mさんはそれから一生懸命に礼拝に出席されるようになった。Mさんは、日曜日にはお店を閉めてしまう。繁華街の商店街で、Mさんのお店だけシャッターをおろしているのである。それでは他のお店との間がうまくいかないでしょうと他の教会員の心配に、いや、日曜はあまり売れないし、従業員もこの方が喜びますからとの返事である。 会堂建築の際、Mさんは大いに力を尽くしてくださったのは言うまでもないことだが、会堂完成後のMさんは、ことのほかうれしそうである。彼は、大きな声で讃美歌を歌う。私が司式をしながら、会衆に背を向けていても、Mさんが来るとすぐわかるのである。彼は「いやあ、大きな声で讃美歌を歌うといいもんですな。税務署も借金も全部忘れてしまう」。その細い目が、見えなくなるほど笑うのである。 確かに鹿児島教会では、皆大きな声で讃美歌を歌った。たまたま他の教会の礼拝に出席すると、歌う声の小さいことにおやっと思ってしまう。 私は、前にも書いたように、礼拝の場所は、いつもの生活とは異なるきちんとした所が欲しいと思っている。一週間に一度しか使わないからぜいたくだとしても、そのような場所をきちんと持って、み言葉を聞き、霊魂が養われるという絶大な価値には代えられないことだと思っている。 会堂が建ってしばらくしてから、一人の宣教師が、鹿児島教会に任命されて来られた。実は、私自身、高校生の時この方に導かれて洗礼を受けた。当時、高校教師であられたこの方は、2年間短期宣教師として来日され、キリスト教系の高校で英語を教えておられた。わたしは別の高校の生徒だったが、英語を学ぼうと彼の家へ友人と押し掛けた。彼の影響で、わたしは洗礼まで導かれ、その後神学校へ行き、牧師になったのである。その宣教師は、その後アメリカで、神学教育を受け、「佐藤と共に教会で働こう」と志され、鹿児島へ来られたのである。この宣教師のことは、別に、稿を改めてご紹介したいと思う。とにかく、彼の許へ、学生たちが集まった。日本語が不自由なこの宣教師は、専ら英語で聖書を共に読む機会、つまりバイブルクラスを開始され、そのクラスが、週8クラスに及んだことがある。人柄もあって、彼の影響で、礼拝に集う学生が増えたのである。新しい礼拝堂も、彼が計画する特別のプログラムの時は満員という時もしばしばであった。彼、マッカートニ宣教師のことは、別の稿でご紹介しようと思う。 鹿児島は、古くから教育の盛んな所で、最初に鹿児島を訪れる者は、教育施設に一目おくものである。今でもラサールを始め、大学への合格率の高さは、地方都市としは、抜きん出ているのである。その有名高校の生徒たちが、のんびりした顔で教会でうろうろしているのだから、親にうらまれたくない小心の私は、早く帰って勉強しろとまくしたてる始末である。それでも、ほとんど進学して、ちゃんとした社会人になって、私の前に出現し、私を驚かすのである。
会堂のもう一つの成果である。鹿児島は、病院の多い町である。教会の近くにも、いくつかの病院があった。ある病院の看護婦が、ひょっこり礼拝に来る。誰でもそうだが、彼女は、歓迎され、顔をほころばせて帰って行く。すると、次の日曜日、同僚の看護婦を何人か連れてまたやって来る。聞けば、当直以外の者は、皆来たとのことである。しばらくすると、入院している患者さんが大挙して、礼拝にやってくる。このような例が、目立って多かったのも、会堂が建った結果であったのだろう。もちろん、病床にいる人たちに、このような形で、神の言葉が届くようになったのも、うれしいことであった。 会堂という拠り所ができてみると、人々は、いつのまにかそこに集まって、日頃自分が生きている世界の矛盾と戦う力を得るようだ。これを逃避と呼ぶ人は、休日を悪だとしか思えないのではないだろうか。 人は、ふと自分の普段の世界とまったく別のところに自らをおいてみて、新しい自分を発見するし、また自らの道を見出すのである。 しかもその場所が、繰り返し繰り返し人間の拠って立つべきものについて聞くことのできる場所であればなおさらである。人間は、どこから来てどこへ行くのか、何をするために産まれてきたのか、教会は聖書によって、このことを繰り返し語る。それが聞こえる場所に集まって大声で歌い、聞き、語るのだから、税務署が恐ろしかろうはずがない。大学受験に我を忘れようはずもない。かえって、ゆとりをもって、これらに当たることがてきようというものである。 会堂を得て、教会のこの機能がはっきりしてきたのである。もちろん会堂が無くとも、教会はこのような機能を備えている。しかし、そこは人間であって、見えるかたちではっきりしたものを得ると、いきおいその機能もはっきり人々に見えるようになったのである。 教会は喜んで集まれる場所でなければならない。けして義務感から集まるような所ではないのである。だから、喜んで集まれる場所として維持されなければならない。ます、そのためには、見える教会を誇れるものにするのも大切である。会堂建設資金のために苦労した人たちは、この会堂を誇りに思っていた。そしてそれによって自らも成長していった。 しかし、このことは当然、会堂建設の苦労に参加しなかった人たちが増えてくるとともに、彼らの間にある当惑が産まれ始めたのである。 だが、その頃、教会の中に少しずつ増えていったある人たちがあった。それは、身体に障害を持つ人たちで、その人たちが仲間に加わると共に、鹿児島教会全体に、次の新しい目標が与えられることになった。
次回は、月末25日頃の更新を予定しています。ぜひ、ご意見、ご質問をお寄せください。お知り合いの方に、このホームページをお薦めください。ご一緒に、お話し合いの上、ご意見等もどうぞお寄せくだされば、幸いです。 ぜひ、お近くのキリスト教会へ行って見ましょう。初めてであっても心配はご無用。歓迎されますよ。教会の表の掲示板で、礼拝やミサの時間を確かめましょう。日曜は、主の日、 多くの教会では、この日に礼拝、ミサが行われます。 ただ、教会は、その歴史と伝統によって、式次第や雰囲気が違う場合があります。自分の肌に合わないと思ったら、さらに別の教会にも、行ってみましょう。 教会は、あなたに献金や、参加を強要したりすることはありません。献金は自由意志です。目的に賛同できれば、ぜひ、ご協力ください。また、最初から言うのも変ですが、退会は自由、行くのを止めれば、それでよいのです。でも、神様は、けしてあなたのことを、お喜びににり、お忘れにならないとわたしは信じます。 しかし、せっかくのあなたのご決心ですから、しばらく続けて出席してみましょう。お困りのことがあれば、どうぞ、メールでお知らせください。ぜひ、教会へお出でください。 ご感想は、こちらへ Kuni2sato@aol.com
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