「私のヘブライ人への手紙」(みんなで燃えた教会の物語)
Vol 6

-教会の役目 3-

 「あなたが心に留められる人間とは何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。」

(2章6節)

 

 ヘブライ人への手紙 2章5節以下は説教である。著者は、詩編8編を引用して冒頭の言葉を述べている。この言葉を、幾度か繰り返して、そうである、声に出して読んでみていただきたい。私たちに、何か深い思いを起こさせるであろう。

 「いったい人間は何者であろうか?」

 これは永遠の問いであろうし、特に思春期、青年期の若者にとって、この問いを突き詰めることは重要である。

 鹿児島教会には、身体障害者が、その会員に多くいた。最初にやってきたのはK子さんで、私が牧師として赴任して間もない頃、お母さんが押す手押し車で40分かかる道のりをやってきた。彼女は、産まれた時から脳性麻痺で、歩行はもちろん、言葉も少し慣れないと聞き取れないくらいに不自由である。恥ずかしいことだが、初めて彼女に会った時、私は立ち往生してしまった。とても何もしてあげられないと思った。それで、「もっと近くの教会に行ったらどうか」など無責任なことを言ったのである。事実、彼女の家からわたしたちの教会まで、三つの他教会の前を通り過ぎてくるのである。初めて来たのに、母子は口をそろえて「どうぞこの教会に来させてください」とのことである。他の教会に行ってみたが、入り口に石段があって教会に入れないとのことであった。私は、この時、腹を決めた。

 別の障害者であるS子さんは、「ルーテルアワー」の放送を聞いたということで便りがあり、私は病院に彼女を訪問した。やがて、退院した彼女は、幸い家が近いということもあって、義姉の自転車の後ろに乗って、教会通いが始まったのである。彼女は、関節リウマチで、小学生の頃から歩けない。しかし、今は結婚して、不自由な体だけど精一杯生きている。

 他にも、数人の障害者の方々が鹿児島教会で洗礼を受けてクリスチャンになった。これらの人々については、別の機会にご紹介しよう。ただ不思議なことは、彼らは互いに、何の脈絡もなく集まったということである。教会に行ってみたら、同じ体の不自由な仲間がいたということである。今思うと、まさに「神の出来事が起こっていたのだ」と感じる。

 さて、その頃の私は、人間の能力ということに力点をおいていたように思う。たとえば、人に比べて何かに秀でている、これを恵みと呼び、与えられた恵み、すなわち能力を伸ばすことが、人間にとってきわめて大切なことであり、それこそ神の恵みに応えることであると考えていたのである。

 ルターの職業観もそれで、職業即神の召しと考える構造があった。そして私はこの考え方から、大学生たちに特にハッパをかけていたのである。人間の能力、これこそその人がこの世に生を受けた理由であり、恵みであると説いたのである。

 ところが、ある時。K子さんからこう問われて私は立ち往生をしてしまったのである。

 「それでは、私は何のために産まれたのでしょうか」。

 確かに彼女には、いわゆる能力というものはない。人より秀でているというものはない。先に私が言った立場からでは、彼女の存在理由というものはでてこない。私の考えが、いかに実用主義的であり、貧弱なものであるかということを思い知らされたのである。それでは、役に立たないものは存在理由が無いということになる。これは、まさしく日本の社会の論理ではあっても、聖書のそれではないということがわかった。即答できなかった私は、彼女に答えるために必死に考えたのである。

 数ヶ月後、大学生たちを集めてある施設で奉仕作業をした。ワークキャンプである。その時大学生たちと、人間の存在について話し合っていたとき、突然「ああ、分かった」と思えたのである。

 私たちは、あまりに自分自身の能力や付属物にとらわれすぎて、事柄の本質が見えなくなっているようである。人に比べて、何が優っているか、あるいは何が劣っているのかというようなことばかりに捕らわれて、思い上がったり、劣等感をもったり、自分を縛るばかりである。そのように、相対的な世界ではなく、絶対な立場で物事を見ることこそ聖書の世界ではなかったか。体が健康だ、不自由だというのは「たまたまそうである状態」であって、大事なのはもともとの人間そのものなのではないか。  私たちは、自分自身の状態や附属物にあまりにも目を向け過ぎる。健康を恵みというなら、体の不自由さは、神に見捨てられたことになるのか。商売繁盛を感謝するなら、倒産は、神の呪いを受けたことになるのか。健康だろうと、不健康だろうと、何よりもまず人間であることに目を止めなければならない。

 K子さんには、いわゆる恵みと人が呼ぶようなものは何もないと言っていい。それだけに、かえって、もともとの、本来の人間の存在そのもの、神の恵みの原点がはっきり彼女の中に見えるのである。

 結論だけ言えば、元来すべてのものは、中でも人間は、神の愛の対象として創られたのである。人間は、神の愛を受け、それに応え、喜び讃えるために存在するのである。

 人間が、勝手に能力や健康など、自分に都合のいいことを「恵み」と呼ぶようになったため、本来の意味がすっかり見えなくなってしまったのである。彼女等の出現は、教会に深い問いを思い起こさせてくれた。それは、衝撃的ですらあった。

 彼女らも、かくして自分の存在理由を確かめることができて、随分平安な気持ちになったようである。

 身体障害というものは、一つの極限状況であるけれど、そこで真実なものが見える。それ以来、彼らは言わず語らずの内に、多くの人々に対して、私以上に真実の牧師の役目を果たしたのである。

 それでも、彼らもこの世界を生きていかなければならない。障害者年金など生活の足しにやっとなるであろうか。生活保護だって、少しばかりの財産とも思えないものがあっても受けられない。親がいなくなったら、誰が世話をするのか、切実な状況は今も同じである。

 このような人たちを、身近に、しかも教会の交わりの中で、兄弟姉妹と呼び合ううちに、教会の人たちは、自分の問題のように真剣に考え始めたのである。同情だけなら、誰にでもできる。でも、教会で兄弟姉妹と呼び合っているのである。それは、単なる優しさの世界ではなく、共に生きる、むしろ厳しさを共に生きる、そのような世界であると思ったのである。

 今、バリアフリーという言葉が広く用いられるが、大いに結構なことである。共に生きるというのは、心も、そして社会の生活の中で、人間同士の心と、身体の障害物を取り除こうというのである。私たちは、言葉はともかく、そのように考えたのである。生きることの基本に取り組もうという思いであった。そしてまず百万円を作ろう、そして百万円できたら何かしようと誰ともなく言い出して、役員会一同を始め、教会の皆がそう決意したのである。昭和39年、1964年東京オリンピックの年のことである。

(以下、月末の更新予定の次号へ続く)


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 もし、まだキリスト教会へお出になったことがないのであれば、この機会に、ぜひ、お近くのキリスト教会へ行って見ましょう。初めてであっても心配はご無用。歓迎されますよ。教会の表の掲示板で、礼拝やミサの時間を確かめましょう。日曜は、主の日、多くの教会では、この日に礼拝、ミサが行われます。

 ただ、教会は、その歴史と伝統によって、式次第や雰囲気が違う場合があります。自分の肌に合わないと思ったら、さらに別の教会にも、行ってみましょう。

 教会は、あなたに献金や、参加を強要したりすることはありません。献金は自由意志です。目的に賛同できれば、ぜひ、ご協力ください。また、最初から言うのも変ですが、退会は自由、行くのを止めれば、それでよいのです。でも、神様は、あなたのことを喜び、お忘れにならず、気が付かないところで支えてくださるとわたしは信じています。

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