「私のヘブライ人への手紙」(みんなで燃えた教会の物語)
Vol 8

-教会の役目 4-

 「事実人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」

(2章11節)

 兄弟、姉妹、それは教会の中でお互いを呼び合う言葉である。しかも、それはけして形式的な呼び方ではなく、本当に内実の伴った呼び方でありたいものである。パウロの言葉である。「キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのである」(ローマの信徒への手紙14章15節)。

 あなたのためにも、あの人のためにも、そしてこの私のためにもキリストは死んでくださった。その前には、何の差別もなく、相違もない。そして何も誇るべきものもない。故にこそ兄弟姉妹なのである。先に、人は、大いなる善意をもって身体障害者に接し、何かしてあげられると満足を味わっていたのだが、実はそうではなく、実は重大なこと、特に人間として最も基本的、かつ重要なことを、彼らに教えられたことに気付いて、むしろ愕然としたのである。

 兄弟・姉妹と呼ぶ間柄には「…する者」「…される者」の差はないのである。お互いが、それこそ主体的な人間として関わり合うのである。ある一つのことだけとりあげてみれば、確かに与える者と、受ける者の差はあるけれど、事柄は総合的に見なければならない。だから、教会のなかでは、もっと自由に振る舞う方がいい。どこかで人に迷惑をかけなければ私たちは生きられないのだから、どうしても迷惑をかけなければならない場合は、遠慮なく迷惑をかける方がよい。しかし、同時に自分が人に与える影響や力、そして迷惑についても責任を感じなければならない。それが兄弟の交わりである。

 さて、身近に「兄弟姉妹」と呼ぶ身体障害者たちを得て、教会の人たちは真剣に考え、話し合った。一時的な善意はともかくとして、何をしたら身障者も人間として生きとし生ける幸いを自分のものにできるであろうか。もちろん彼らの最大の願いは健康な体であるに違いない。しかし、それができないからこそ、苦しく辛い日々を強いられているのである。

 では次に必要なものは何であろうか。私は、それは広い意味での「生産」ではないかと思う。物を作り出すということは、確かに生きる証であり、失業者の辛さは、単に経済的に困るという以上に生産活動ができない、社会活動に参加できないという苦しみがあろう。もちろん、広義の生産ということを考えるわけだが、生産活動によって社会活動に参加する、一人前と認められ皆と共に生活できるというところに人間として生きる証があり、喜びがあるようである。

 いずれこのことに触れるが、私は1965年に8ヶ月間渡米した。この間、一人の牧師としてアメリカの社会に参加させてもらい、多くの社会の面にも直接触れたし、千人以上の人と膝を交えて話し合うことができた。その中で「クッドウイル」という全米にネットする身障者のための作業施設には目を見張らせるものがあった。私が見たのは、古い衣料、家具、玩具の再生工場であり、立派に企業として成り立っていた。人々は、古くなったもの、壊れたものを寄付し、新品のように再生されたものを買っていく。これは社会の豊かさというより、人の心の豊かさである。

 手足の不自由さは、機械に代行させる。そして生産活動をする。これをアメリカ的合理主義と呼ぶなら、私はこの方が好きである。大型トレーラーさえ改造されて、片足の男の運転で、大陸横断へ出かけて行った。

 オマハにあるルーテル教会の病院で、一人の老婦人が、機械のハンドルをぐるぐる回していた。片方にある三つのラッパのような口から破れたストッキングをそれぞれに続けて入れると、反対側からそれが三つ組みのひもになって出てくる。他の老婦人がバスマットに編み上げているのである。それを病院の売店で販売し、一方人々は、破れたストッキングをぞくぞく届けに来る。機械というものは、工夫されなければならない。人間の力の限界というものを、大きく拡げてくれるのが機械であるならば、身障者の力を拡大してくれるのも機械なのである。しかし、日本では、その工夫もごく一部の人の善意に委ねられているだけである。

 それにもう一つ。資本主義社会、特に日本のような社会では、生産性というものが重要視される。身障者や老人、そして女性が社会の脇役の地位しか与えられないのは、生産性に由来する面がある。そこで問われるのは、労働の量であって、けして質ではない。そして量こそが、人間の質さえ決定してしまうと錯覚する人が、この国には多すぎる。特に高度成長を国是のようにした時代が長かったので、このような問題について考えたり発言したりする人はいなくなってしまった。

 身障者たちを「兄弟姉妹」と呼ぶ内に、当時の鹿児島教会の人たちは、集まった百万円をもとにして、身障者の作業施設を作ろうと誰とはなしに言い出して、意見がまとまったのである。

 それから数人の者たちで施設巡りを始めた。別府の「太陽の家」や、東京の「泉寮」など親切に教えてくれるところもあったけど、中には、電話で訪問について趣旨を説明すると、いきなり「身障者を食い物にするのか」と怒鳴られたりするところも少なくなかった。三年ほど見学にかけたけど、今思えば、結局得るところは微々たるものであった。教えるものが何もなかったからなのか、「素人に何が分かる」という考え方からなのか、その時の印象としては、福祉の世界にいる方々の警戒心、あるいは心のせまさなど、また、そうならざるを得ない悲しさを痛感したものである。

 県庁に出かけてみても同じようなもので、結局教えられたことは、利益が上がると税金がかかるというような話しや、身障者の収入になると障害者年金支給の点で困るというような話しばかりであった。

 ある程度の規模にならないと社会福祉法人になれない。もちろん法人になれなければ、いろいろな特典を受けることができない。このような施設も、最近は増えているけど、規模という点で、遠く郊外に隔離されたように建てられるのがせいぜいで、やはり社会の仲間入りを認めていないことになる。生産性の低いものは、脇へどいていなさい。企業様のお通りですからという雰囲気である。このような施設は、人々が暮らす場のすぐ近くにある方がいい。共に生きる場所の方がいい。

 時は、学生紛争のたけなわな時代であった。日大、東大の騒ぎが頂点に達していたころである。学生たちのゲバ棒は、彼らの主張を示す道具とも言われたりしたが、殺人の道具に堕落していた。

 福祉を巡る人や社会に怒りさえ覚えた私たちは、この計画に「ナオミホーム計画」と名付け、この計画を「ゲバ棒」と密かに呼んだりしていたのである。(以下月末更新予定の次号に続く)


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 ただ、教会は、その歴史と伝統によって、式次第や雰囲気が違う場合があります。自分の肌に合わないと思ったら、さらに別の教会にも、行ってみましょう。

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