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「私のヘブライ人への手紙」(みんなで燃えた教会の物語) -教会の役目 6- |
| 「事実、(キリスト)ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(2章18節) |
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身体障害者たちの作業施設が、今までお話ししてきたように、とにかく完成して、仕事が始まったのである。 継続的な働きになると、やはりいろいろ難しい問題が出てくるものである。あのとき、何から始めたらよいか分からなかったのを思い出すけど、今は何から書き始めたらよいか迷ってしまう。 |
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まず、「何をするか」ということである。前にも述べたように、手芸をする人が多かったので、手芸を中心とする作業をというのは自然の成り行きである。親切な業者がいて、仕入れの世話から、作り方の指導までしてもらったり、染色の手ほどきを受けて、まず妻や教会の婦人会の人たちがマスターすることにした。 作業場は、私の主張で、表通りから何となく見えるような造りであること、しかも、人からジロジロと見られるような感じでないことなど、注文は難しい。そして、出来上がった作品が、美しく陳列されるようでなければいけない。要するに売れなければならないのである。 縫いぐるみの人形一つ作るような作業では、健康な人なら、1時間でいくつも作るような作業だけど、何しろ、手も指もまっすぐ伸びない人たちのことだから、一つ作るのにどうかすると何日もかかってしまう。中には、曲がった指で、器用に縫い上げる人もいるが、多くの人にはそうはいかない。やっとの思いで縫い上げても、少しでもおかしいとあれば、解いてやり直しをさせる。これでも商品を作っているのである。 時には、泣いたりわめいたりしながら、幾日もかかって作り上げたものが目の前で売れる時は大騒ぎである。皆が大きな声で、それこそ「ありがとうございました」と叫ぶのである。 自分が作ったものを、人がお金を出して買ってくださる、これは、自分が社会の中で認知された、自分にも社会の中に存在理由があったということの何よりも雄弁な確認である。 |
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身障者には、百万の言葉を費やして、「あなた方も人間としての価値は同じだ」と言って聞かせても、それは慰めと励ましの言葉でしかないのである。身障者も人間であるからには、社会活動に参加しなければならない。共に生きたい、生きてもらいたいのである。それは、老人も同じような問題であろうと思うけど、生産をするということは、単に生活のためというより、人間として、社会人として最も基本的なことだということがわかった。 「同情で買ってもらうのでなく、いいから買ってもらう」というようなものを作ろうと言い合っていたのだが、いかにも生産性が低い。一ヶ月の利益を身障者皆で分けたのだが、たしか一人2千円くらいのものであった。今から、20年ほど前のことだが、いかにも少ないものである。 確かに生産性というものは、重要である。そして、より高い生産性が生み出す富というものの量が多いのも、自然であるかもしれない。しかし、生産性の高さが、人間の価値に関係があるかといえば、実は、ないはずである。けれども、現代の社会では、収入の大小によって、人の尊敬度、社会的な認められ具合に違いがあるという現実がある。 |
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ナオミホームでの作業を通して、私たちは、働くことの最低の条件、最低の生産性しか発揮できない現実を通して、働くことの本当の意味と、喜びを知ることができたのである。働ける人、つまり生産性の高い人には、けして分からないことかもしれない。事実、多くの人々が働くことにうみ疲れ「労働の苦しみ」を覚えこそすれ、「勤労の喜び」など持ってはいない。働くことを奪われて始めて、働くことが、単に生活の手段に留まらないで、人間として、社会人として生きることの内容であることに気付かされるのである。 今まで、体の不自由さのため、家にこもっていなければならなかった人たちが始めて一緒に仕事をするのだから、各人相当の努力をしなければならなかったようである。しかし、それにもまして喜びの方が大きかったのである。毎朝、交代で礼拝の司会をし、聖書を読み、祈り、そして仕事にかかる。ただ、精神的に協力しようという申し合わせだけでは、とても、まとまるものではない。先に挙げた聖書の言葉のように、自分たちが苦しんでいるだけではないという仲間意識、そして苦しむ必要のない神の子イエスが、わざわざ私たち以上に試練を受けたもう、そしてそれだからこそ、わたしたちの試練の真っ只中にお立ちたもうという信仰が、わたしたちを支えたのである。 ただ、材料の不完全さには泣かされた。たとえば、ろうけつ染めのクッションを作る。材料は、人工皮革、見た目には、まず美しくでき、作りやすい材質なのだが、数ヶ月もすると、全面にひびが入ったようになって、とても使い物にならない。まだ、開発途上であったのだろう。障害者に製品にしやすい材料の品質には、いまだしの感があり、皆がっかりしたのである。 |
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身障者は、鹿児島市のほとんどの地域からやって来る。問題は、足の確保である。そこで送迎用の自動車を建築費に加えて購入することにした。当時発売されたばかりの9人乗りのバンを、ちょっと改造して、足が不自由でも、何とか乗り降りができようにし車椅子を積めるようにした。その三菱の自動車の車台製造番号は50番だったを憶えている。 運転は、主に私がやったが、その頃、九州各地に点在する教会のお世話をする役目に選ばれたから大変である。熊本まで片道4時間かかるのだからなおさら大変である。私はその頃、1年に百日間旅行をしていた。鹿児島教会のこと、ナオミホームのこと、そして教区のこと、今思えば、よく体が持ったものである。 留守がちな私の代わりに、送迎車の運転のために、まず、妻が免許を取った。結婚前身近に運転免許を持つ人さえいなかったのに、よくがんばったと感謝している。後には、作業施設の二階に住む学生たちも時折手伝ってくれた。 この送迎車は、自動車の運転ができるというだけでは運転させないのである。何しろ身障者を乗せている。 しかも、時間は多少ずらすとしても朝夕のラッシュ時である。絶対に急ブレーキ、急ハンドルは避けなければならない。そのような羽目にならないように、常に先を読んで運転しなければならない。この車の運転には、私の厳しいテストに合格しなければならない。 私は、この経験から、身障者、幼児、老人などを輸送する自動車は、他の車の注意をうながすため、たとえばシカゴ警察のパトカーのように、青い色の回転灯をつけて走るように法制化すればよいと思う。これを鹿児島市長、参議院議員の方に、また障害者団体の方に申し上げたのであるが、未だに実現していない。 |
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| 次回は、月末25日頃の更新を予定しています。ぜひ、ご意見、ご質問をお寄せください。お知り合いの方に、このホームページをお薦めください。ご一緒に、お話し合いの上、ご意見等もどうぞお寄せくだされば、幸いです。 |
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もし、まだキリスト教会へお出になったことがないのであれば、この機会に、ぜひ、お近くのキリスト教会へ行って見ましょう。初めてであっても心配はご無用。歓迎されますよ。教会の表の掲示板で、礼拝やミサの時間を確かめましょう。日曜は、主の日、多くの教会では、この日に礼拝、ミサが行われます。 ただ、教会は、その歴史と伝統によって、式次第や雰囲気が違う場合があります。自分の肌に合わないと思ったら、さらに別の教会にも、行ってみましょう。 教会は、あなたに献金や、参加を強要したりすることはありません。献金は自由意志です。目的に賛同できれば、ぜひ、ご協力ください。また、最初から言うのも変ですが、退会は自由、行くのを止めれば、それでよいのです。でも、神様はあなたのことをお忘れにならず、どのような時にでも、共にいてくださいます。 しかし、せっかくのあなたのご決心ですから、しばらく続けて出席してみましょう。お困りのことがあれば、どうぞ、メールでお知らせください。ぜひ、教会へお出でください。 ご感想はこちらへ 佐藤邦宏
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