
聖書周辺の旅 -『波間に浮かぶ聖書』-
1853(嘉永6)年から54(安政元)年にかけて、アメリカのペリー提督が浦賀に来航したころ、佐賀藩主鍋島直正の家老、村田若狭守政矩は藩主の命により、長崎の警備に従事していました。1855(安政2)年、イギリスの軍艦が長崎港に停泊したとき、藩士の古川礼之助が、軍艦を訪問した帰りに、波間に漂う一冊の西洋の書物を拾って、村田に届けました。村田がオランダの通詞に見せたところ、それが英語の聖書であることがわかりました。
長崎の警備を終えた村田は、佐賀に帰り、家臣江口梅亭を医学を研究させるという名目で長崎に派遣、その書籍の内容を調べさせました。江口は、1859年長崎にやってきた、宣教師フルべッキに会い、英語聖書がすでに中国語に翻訳されていることを知りました。江口は、漢訳聖書を入手し、村田に届けました。
![]()
漢訳聖書を読んでもよく理解できなかった村田は、1862(文久2)年、江口、藩士本野周蔵、そして弟である村田綾部恭をフルべッキのもとに派遣しました。彼らは、フルべッキの自宅での最初のバイブル・クラスの生徒となりました。まず、新約聖書の始めから学んだのだそうです。
このようにして村田は、長崎に派遣した3人から、間接的に聖書を学び、1866(慶応2)年5月20日、ペンテコステの日に、弟綾部恭と共に、フルべッキから洗礼を受けました。1865年11月、横浜で洗礼を受けた矢野元隆に続いて、我が国のプロテスタント史上第二、第三番目の受洗者となりました。
まだ、キリシタン禁制の時代です。しかも、幕末に多くの人物を排出した佐賀藩の家老職にある人が洗礼を受けたことの影響は、けっして小さいものではありませんでした。1868(明治元)年には、村田の息子や家族、そして清水宮内という僧侶もフルべッキから洗礼を受けました。
しかしやがて村田の受洗が発覚し、藩主鍋島直大は、村田を隠居させました。それから村田は、漢訳聖書の和訳に力を尽くしたのだそうです。フルべッキも、また、旧約聖書翻訳委員会の一員として聖書の和訳事業に参加することになります。