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Brief Histry,Concerning "The Bible"
和訳史のエピソード その14
ペリー艦隊と聖書2 -ゴーブルの手紙- ペリー艦隊艦上での日本宣教のための祈り
日本聖書協会 前総主事 佐藤邦宏
ペリー艦隊の通訳官であったS.W.ウイリアムス(S.W.Williams)博士が、1881(明治14)年3月3日、アメリカ聖書協会の会長に就任したという報が伝わると、ペリー艦隊の乗組員であり、前回取り上げましたサム パッチの世話をしたジョナサン ゴーブル(Jonathan Goble 1827〜1898)は、当時横浜にいましたが、ウイリアムス博士に、次のような手紙を書いています。ちなみに、ゴーブルは、1860(万延元)年来日し、直ちに聖書の和訳に着手し、1871(明治4)年、「摩太福音書(マタイ)」の翻訳を終え、木版刷りで発行しました。これは、日本国内で最初に印刷された聖書となりました。さて、その手紙ですが、日付は分かりませんが横浜からの発信です。
「ウイリアムス博士は、28年前、横浜港に碇泊していたペリー艦隊の旗艦のデッキで、一人の水兵と、日本における宣教の働きの見通しについて話し合ったことを覚えておられるでしょうか。わたしは博士に申し上げたい。その水兵が、すでに21年も、日本で宣教師として働いていることを。神のみ恵みの希望をもって、さらにこの国で、神の働きをさせていただく光栄にあずかりたいと望んでいることをお報せしたいと思います。通訳官として、さらに提督の護衛官として艦隊の重要な役割を担われた方が、そのころすでに、大きな関心を持っておられた働き、すなわち神の言葉を、この国の人々に届けるという働きの一つの旗のもとに、共に立つことができることが、そしてそれが、再びこのように早く実現することは、まことに感謝すべきことです。
多分、博士は覚えておられないでしょうが、その時わたしが申し上げたことです。わたしは鮮明に記憶しています。当時の日本と、今日の自由な日本、そこで、わたしたちは、聖書の普及と宣教の働きが自由に行える、それはまさに主が偉大な事をなしたまい、わたしたちは、ただ神を誉め讃えるのです。わたしは、ウイリアムス博士が覚えていてくださるのであれば、心から嬉しく思います」。(「アメリカ聖書協会アーカイブに見る 日本語聖書の誕生」佐藤邦宏訳より引用)
この二人が日本宣教について語り合った当時、彼らが搭乗したいたと思われるペリー艦隊旗艦ミシシッピは、横浜湾のどのあたりに碇泊していたのでしょうか。横浜開港資料館で調べたところ、碇泊日時、資料から、横浜市本牧埠頭と、今日の東神奈川の高台にあるお寺(神社?)を結んだ線上の、山下公園の沖合あたり、つまり現在の氷川丸の沖合にある防波堤、そしてその上にある小さな赤い灯台の少し沖合あたりではないかと推定されます。艦上から、横浜の街が、手に取るように見えたに違いありません。人々の姿さえ見えたでしょう。資料館に調査に行って、山下公園から沖合の、小さな赤い灯台を見てわたしは深い感動にとらわれました。あの位置あたりこそが、二人のアメリカの方が、日本宣教のために、最初に語り合い祈り合った場所であるのです。
2001.Jan.25
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